才能と努力と環境③

ブログを御覧いただきありがとうございます。

津軽三味線奏者の佐藤壽治です。

 

 

今日も引き続き「才能」について書きます。

 

 

私、津軽三味線がうまい人間だと自分で思っています。

それもかなり。(自画自賛)

 

でも、三味線を弾かせたら下手くそです。おそらく笑っちゃう人がいるくらい下手くそです。

 

 

昨日の話からいくと私は津軽三味線に全振りしている人間です。申し訳程度にいろんな曲は弾けますが、すべてがうまいわけではありません。

 

 

花笠音頭や真室川音頭に東京音頭や炭坑節など、全国的に有名なものも演奏できます。地元福井の曲も演奏できます。

 

しかし、それらは津軽三味線ほどうまくは弾けません。

 

 

才能がある、ということは偏りがあると私は考えています。そこが上手であるから、犠牲にしている部分があるはずなんです。

 

わたくし、津軽三味線はこう見えて全国に名前が知れているくらいになりました。日本一になった事もありますし、親の七光りも大きいので人より目立っているはずです。

 

 

しかし、才能という事に関して活きている部分っていうのはそこだけなんです。だから私は、才能とは不自由なものとも思います。

 

 

上手になりたいという気持ちは同じなんです。気持ちは同じなのですが、注ぎ込まれる才能は、もしかしたら違う場所へ分けて注がれていたりします。

 

 それが歌であったり、運動であったり、料理であったり、考え方であったり。

『あなたが才能を活かしたい場所に注がれていない』場合があるわけです。

 

津軽三味線が上手になりたいのに、唄や太鼓に踊りいろんな事が気になって、いろんな事に挑戦してみた人ならわかりますかね。しっくりくるものがあるはずなんです。

 

 

津軽三味線が好きで習い始めたんだけど、唄の方がなんか理解が早いみたい。

 

津軽三味線が好きで習い始めたんだけど、踊りの振り付けは自然と動けちゃうんだ。

 

津軽三味線が好きで習い始めたんだけど、太鼓の音は身体にしみ込む感じがする。

 

好きなのと才能が使われる、活きるのは違うんです。しっくりくるなどの感じ方はその報せなのかもしれません。

 

 

才能が見えたり、説明書きがあればいいのに。あなたの才能はこれで、こういうことに向いてますよ、と書かれていたら・・・

 

ではまた。